東京高等裁判所 昭和28年(う)1470号 判決
被告人 中村訓
〔抄 録〕
一、論旨第一点(前記控訴趣意書訂正と題する書面及び控訴趣意書補充書と題する書面により訂正補充した控訴趣意第一点の意味、以下同じ。)について、
原審第一回公判調書の記載によれば原審第一回公判廷において検察官は、原判決が証拠に採用した被告人の検察官に対する供述調書(論旨は司法警察員に対する供述調書を指摘していないが以下の説明はすべてこの供述調書にも該当することを附言して置く)の取調を請求したところ、被告人又は原審弁護人において刑事訴訟法第三百二十六条の同意を与えなかつたため、原審はこれが却下決定をしたものであることは洵に所論のとおりである。然るに原審第三回公判調書の記載によれば、右公判廷において検察官は、改めて右供述調書について証拠調の請求をしたところ、被告人又は弁護人においてこれを証拠とすることに同意したので原審はこれを取り調べる旨の決定をなし、所定の方式に従つてその取調を了したことを知ることができる。而して右原審の採証は記録に徴するに刑事訴訟法第三百二十六条所定の要件を充たしているものと認められるから右同意のないことを前提として右供述調書に証拠能力なしとする所論は採用するに由なきところであるのみならず、所論のように一旦却下した証拠を再び採用することを絶対不適法視する法理は存しないのであつて、この措置を目して一個の証拠について或は却下し或は許可する如き相矛盾した二個の決定をしたということはできない。即ち事情の変更により或は同一審級において又は異なつた審級において前には法定の要件を充たさないと認められ却下された証拠であつても、たとえば証人等の取調により後にその要件を充たすことが判明して適法な証拠として採用されること並びに当事者において先には証拠とすることに反対であつても後にこれに同意することも通常起り得る事柄であつて決して不適法な手続ではないのである。又公判期日における訴訟手続で公判調書に記載されたものは、公判調書のみによつてこれを証明することができ、公判調書以外の資料による反証を許さないことは刑事訴訟法第五十二条の規定するところであつて、若し右公判調書の記載が正確でないと認めた場合には、当事者は同法第五十一条によつてその記載の正確性について所定期間内に異議の申立をすることができるのであるから、本件において若し前記公判調書の同意なる記載が間違つておれば、被告人なり弁護人なりからその申立をなすべきであつた筋合である。然るに、記録を精査してもこの正確性に対する異議の申立のあつたことを窺うに足りる証左はないのであつて、且つ、右同意なる記載が所論のように不同意の誤記であると解することも右公判調書の前後の関係から考えて到底許されないから右異議申立期間経過後に至つて右公判調書の記載について彼此論議するこの点に関する所論は当らない。なお、右同意は重大なる錯誤の意思表示であるから右公判調書の記載は無効なりとの所論は、刑事訴訟手続における訴訟行為は私法上の法律行為とはその性質を異にし民法第九十五条の規定はこれを適用又は準用すべき限りでないのであるから、これを採用し難く、又刑事訴訟法第三百二十一条第一項の規定を援用してなす所論は、本件供述調書はすべて被告人に関する問題であつて証人等被告人以外の者の供述調書等に関する同法第三百二十一条第一項に関する事柄ではないからこれ亦その前提において誤つており論及するを要しない。これを要するに、原判決が前記供述調書に証拠能力を認めこれを証拠に採用したのは何ら違法の廉はなく、論旨はすべて理由がない。
二、同第二点について。
所論は原審の事実認定が証明力なき証拠を採用し乃至証拠にくいちがいがあり刑事訴訟法第三百十八条に違反するものであると謂うのであるが、原判決は判示事実の認定につきその列挙した各証拠を綜合して認定しておるのであつて、かような綜合認定というのは各証拠の内容と彼是比照考慮して、その各々より抽出した資料を集めて一定の事実を認定論断することであつて、その推理の過程において健全なる経験則乃至論理の方則に反せざる限り、たとえ個々の証拠を分別して観察すると一定の犯罪事実を認定するには足らず、その内容に偶々認定事実に添わない部分があつたとしても、毫も綜合認定を害するものでもなし、又これを以て採証上の法則に反するものということはできない。而して原判決挙示の証拠を綜合すれば、原判示犯罪事実即ち被告人が原判示日時原判示場所において原判示被害者の着用していたオーバー左外ポケット内から同人所有の金品を窃取する目的でそのポケット内に右手指を差し入れたとき、警戒中の警察官に発見されて窃取の目的を遂げなかつた事実を認めることができる。而して原判決挙示の被告人の司法警察員竝びに検察官に対する各供述調書がいずれも適法な証拠能力を有することは前論旨において詳細説明したとおりであり、且つデモス・マスミ提出の被害届についても原審第三回公判調書の記載によれば被告人又は弁護人においてこれを証拠とすることに同意し原裁判所において適法な証拠調を了したことを認め得るのであつてこれ亦適法な証拠能力を有すること右に述べたところと全く同一である。尤も、原判決挙示の各証拠を詳細に検討すれば、その内容が相互に矛盾しているところのあること洵に所論のとおりであり且つ被告人が右手を被害者のポケットに入れた明確な証拠はないのであるが、被害者の左ポケットに手首を入れたということが、右被害届の記載のとおりであることは原審証人飛知和七郎同デモス・マスミの各供述その他の証拠を綜合すると明らかに認められるところであり、更らに右各証言等に徴し認められる当時の被告人及び証人飛知和七郎等の位置、動作その他諸般の情況等によつて審按すると被告人が右手を被害者の左ポケット内に入れたことを推認することは決して難くないのであつて、又経験則に反する不合理なものとも考えられない。このことは当審において事実の取調としてした証人飛知和七郎の供述に徴すると更らに明確にこれを肯認することができるのであつて、結局原判決には所論のように証拠によらないで事実の認定をした違法其の他採証法則に違背する過誤乃至事実の誤認があるとは到底認められない。所論は要するに独自の見解に基いて右証拠の中被告人に利益な部分のみを強調して他の不利益な証拠の証明力を否定して原審と相反する事実を主張して事実審である原裁判所の専権に属する証拠の取捨選択乃至事実の認定を非難するものであつて輙く採用し難いものである。論旨は理由がない。
註 本件は職権による量刑不当を理由として破棄。